天草の南蛮文化-高浜ぶどう-

世界遺産の地 天草南蛮文化復活プロジェクト 天草は世界遺産にもあげられるほど独特の歴史ある地です。その歴史はキリシタンや南蛮文化といった西洋と和が入り混じった他に類を見ないものです。世界遺産への注目を集める中、地元の人が情報を発信し、もっと地元を知っていただくためのプロジェクトです。

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南蛮文化4

天草四郎の真実

天草四郎、その名は広く知られていますが本名を「益田四郎」、諱(いみな)は「時貞(ときさだ)」といいます。洗礼名は「ジェロニモ」、また一時期偽装棄教したとされ天草・島原の乱の際には洗礼名「フランシスコ」の名を持っていました。


父に益田甚兵衛をもち、生まれた場所は、大矢野(上天草市)という説や江部村(宇土市)という説、ほかにも長崎という説がありはっきりしていません。生まれ以外にも不明な点は多くミステリアスな人物です。

彼の逸話は、まさに神の奇跡とされるようなもので、「盲目の少女の目を触れただけで見えるようにした」や「海面を歩いた」など様々ありますが、これらの内容は新約聖書・福音書に書かれている内容と似通っており彼のカリスマ性を高めるために創作されたものとも言われています。

もともと出生に恵まれ経済的に豊かだったこともあり、幼少期から学問にふれ教養があったこと、慈悲深かった事、容姿端麗で一目ぼれする女性が後をたたなかったことなど、非常に高いカリスマ性を有していました。


そのカリスマ性の後押しもあり、1637年に勃発した天草・島原の乱の総大将となり、農民たちの先頭に立ちキリシタン勢の力となりました。当時15~16歳の若さであったため、実働の指揮をとったのは別の物がいたとされています。

歴史書にもある通り、天草・島原の乱は幕府軍の勝利に終わります。
天草にキリスト教が伝来して約70年、キリシタンの名が掲げられた国内最大級の一揆は123日という戦いの日々に終止符を打つことになります。


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