
キリシタン弾圧
時の将軍・徳川家康は、貿易の相手国に対して宣教師の日本への入国を禁止していたものの、キリスト教布教を黙認していたとされています。なぜ家康がキリシタン・キリスト教に便宜を図っていたかというと、その理由は通商貿易のためでした。これを裏付けるものとして家康が江戸に呼び寄せたフランシスコ会が、スペイン船関東入港の便宜を図れなかったことで、日本人への布教を禁じ、キリシタンや宣教師への貸家禁止を命じたことがあったという文献が残っています。
また、そんな中で1609年にマードレ・デ・デウス号の事件が発生します。
それ自体はキリスト教と何の関係も無かったのですが、その事件処理を巡って当事者でありキリシタン大名として有名でもあった有馬晴信と目付役で同じくキリシタンであった岡本大八の収賄事件が発覚します。それを期に幕府はキリスト教を禁止する禁教令が発布されたとされています。
キリシタンの普及率が高かった天草も強い弾圧を受けることになります。 天草の住民にキリスト教の熱心な信者が多かったことは取締りに派遣された幕府の役人を驚かせるとともに、キリシタンを判別する方法や棄教させるための拷問が次々と考案、実行されていきます。
中でも有名なものに「踏絵」があります。踏絵は初期のころには効果もあったとされていますが、偽装棄教が広まるにつれ効果は薄れていきました。キリシタンと分かった後(棄教をしなかった時)の処罰は厳しく、初めの頃は見せしめとして処刑していました。ですがこのことは信仰者に対して恐怖を与えるよりも「殉教」したものとして尊んだとされています。結果、幕府の感情を逆なでし、弾圧を強める事となり棄教させるための拷問も繰り返されるようになりました。
偽装棄教、または弾圧を逃れた人々は隠れキリシタンとして密かに信仰を続けました。人々は、明治に入り信仰の自由が認められるまで公には信仰していることをひた隠しにして過ごすこととなります。この隠れキリシタンとしての潜伏という点が注目され長崎の教会群とともに世界遺産へ手を挙げる重要な要因となったのです。
※偽装棄教。信仰していた宗教を表向きでは棄教したようにみせ、実際には信仰を続ける事。国内では隠れキリシタンなどが有名。

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