天草の南蛮文化-高浜ぶどう-

世界遺産の地 天草南蛮文化復活プロジェクト 天草は世界遺産にもあげられるほど独特の歴史ある地です。その歴史はキリシタンや南蛮文化といった西洋と和が入り混じった他に類を見ないものです。世界遺産への注目を集める中、地元の人が情報を発信し、もっと地元を知っていただくためのプロジェクトです。

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南蛮文化1

南蛮文化の伝来と浸透

西暦1566年頃、天草は天草五人衆(あまくさごにんしゅう)という五人の国人がいました。 当時天草を支配した天草5人衆(志岐、天草、大矢野、上津浦、栖本氏)。その中の1人天草氏(天草鎮尚-あまくさしげひさ-)が、ポルトガル人宣教師ルイス・デ・アルメイダを招いたのがキリスト教・天草伝来のはじまりとされています。また宣教師ザビエルとともに日本に来た宣教師トルレスもこれに合わせ天草へ来ることになります。これは宣教師ザビエルが鹿児島に初来日してから17年後の事です。

当時、日本では隣国の戦が日常となっていたこともあり、国民は「神の前では皆、平等」を説くキリスト教に心のよりどこを求めるようになります。宣教師たちの熱心な布教により、30年もしないうちに天草島民の殆どがキリシタンになったとも言われています。


南蛮船に積まれた貿易品は領主たちの関心を引き、キリスト教の普及とともに貿易が行われていました。しかし、貿易目的だった志岐氏は、貿易の利益が望めないようになると突然棄教し、キリシタンの迫害を始めます。キリスト教の中心は、熱心な信者であった天草氏の領内へと移っていきます。天草市の領地には、のちにコレジヨが置かれるなど、南蛮文化の中枢として栄える事となります。天草氏が納めていた地域が現在の河浦・天草町・本渡にあたります。 また貿易の中心になったことで天草氏の勢力拡大のきっかけにもなります。

※ 国人。国人とは戦国時代に大名の支配力が衰えた地域で城を持ち独立領主として土地を支配していた人の事です。


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